Go To Montain

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第3回哲学カフェ「家事は、しなければならないことか?」

前回のブログから〇か月。全然更新ができておらず。

アルコイリスでは定期的に「哲学カフェ」を開催しています。
毎回異なるテーマに即して、それぞれの経験や価値観、考えを語り合う、対話の場。


前回の哲学カフェの備忘録を、
参加者の池田さんがかいてくださいました。



日時  :平成28年10月29日 15:00~17:15
参加人員:16名

冒頭に対話のとっかかりとして、3つの問いかけを行いました。
(1)できることなら家事はやりたくない。
(2)家事は大変であるがやるべき事で必要な事だと思う。
(3)どちらとも言えない。

まずは「できることなら家事はやりたくない」の方々から次の発言がなされました。

「家事は全部苦手です。嫌いです。家事をやるくらいであれば自分のやりたいことをやりたいです。家事ができる人は専業主婦に向いている、自分が外に働きにいくのは家事が苦手だからだと思う。」
続いて、「お金を出して家事をやってくれるならやって欲しい。イヤなことをやっているのでストレスになっっている。」
家事は好きではない。外注したい。」

こんな中、家事の定義付けのきっかけとなる発言がなされました。
インテリアなど家事としてではなく趣味としてであればやってもいい。」この発言から家事はつらいこととなのか?この点を軸に対話が重ねられました。

「自分のペースでやれるようになったら家事は苦ではなくなった。自分の裁量でやれるようになったら義務ではなくなった。」大変興味深い発言でした。

この発言を受けて対話は更に深まっていきます。
「自分の母親は家事を完璧にこなしていた。子供の頃は手伝えとも言われなかった。結婚して夫と暮らすようになり、家事が苦痛となった。夫がいなくなり家事の面でホッとした部分があった。しかし、今となっては家事は生きる実感を得られる行為となっている。」
この方の発言の文脈を少し補足します。仕事がデスクワークだと、バーチャルな世界に生きている気がする。体を動かすことでバーチャルからリアルになる。
体を動かす、生きることの体感、生きる実感を得られる行為となっている。
この発言で、家事の定義が「生きる行為」であると一旦まとまりました。

それでは、生きる行為をアウトソーシングできるのか?家事を外注することに疑問が投げかけられます。

「自分の健康に関する食の部分は外注したくない」
また、「選択肢があるからやりたくないと考えてしまうのでは?」

例えば、食材しか売ってない世界であれば食事を作らざる得ない。このような世界であれば家事を外注する選択肢自体が存在しない訳ですから、外注は考えない。利便性が多すぎる世の中になっているということでしょうか。
この発言に対して、「選択肢があれば自分で選べるのでストレスにならない。」という意見が投げ返されます。


ここで家事の外注を海外で経験された方から、体験談をお話ししてもらいました。
この方は海外勤務の時、住み込みのメイドさんに家事をお願いしていたそうです。
勤務が非常に忙しかったため、仕事に集中できてとても助かったそうです。
このお話を受けて、再度、家事をすることについて発言がなされました。

「自分が自分らしく生きるために家事をやっている。」

この発言を受けて家事についての対話が繰り返されます。

「何が家事であるか?」
自分のためにする家事と人のためにする家事は、同じ家事であっても意味が違うのではないか?」
自分のためには家事はできない。人のためにしか家事はできない。自分のためにするのは趣味であり、趣味だから好きでないとできない。」

産後ヘルパーを経験された方からのお話しや
子供のためだから家事をやる。自分のためにやる場合はコントロールできるが人のための場合はコントロールできない。だから苦痛になる。苦痛にならない時もある。」

今回のテーマである「家事はやらなければならないのか?」が深まっていきます。

やはり、「家事はやるべき事だと思っている。だが、やらなくていいのであれば自分の事ができる。」
思ったように進まない。だけでやらないと生きていけない。」

家事はやるべきことであると理解しているが、何かしらジレンマを感じているようです。
家事から解放されることも、
「家事はアウトソーシングできない。アウトソーシングしても自分のペースに合わない。」
納戸の修理など自分の趣味の範囲であればやれる。分担の範囲しだいではないか。」
家事の負担からの解放についても様々な意見があり、一筋縄ではいかないようです。

ここで、家事に対する反応についのお話しが出てきました。
「自分が家事をしても反応がない。今の自分は育児と家事しかない、自分の存在は家事と育児、これらが評価されないのであれば、自分が認められない。」
自分の行為が、特に他者に対しての行為が評価されない。

前回のテーマだった「仕事にしばられずに生きられる」でも同じ主旨のお話しがありました。
自分の存在意義、今回のテーマに沿うならば、家事は生きること、生きることを行うことの意義。特に他者の生きることを担っている場合の評価とは。深淵な問いかけです。

ここで「家事をする能力を子どもにどう伝えるか?」という問いが投げかけられます。
家事をする能力、今回の哲カフェでの対話では家事は生きる事と整理されていますから、生きる能力を次世代(子ども)にどう伝えるか?ある意味、生き方の一面を垣間見る問いかけです。

「自分の事は自分でやる。やるべき事と伝えたい。」
「自分は家事は自分で自然と覚えた。自然と覚えるのでは。」
「家事をやらせます。主体性を伝えたい。」
親からは家事をやってもダメだしを受けた子どもがやってくっれたことには文句は言わない。自分の子どものお嫁さんが苦労しないようにしたい。」
「一緒に楽しめばいい。」
「子どもは仕方なくやっている時もある。必要に迫られればやるようになる。」

ここまでの対話を受けて、
「自分のためには家事はできない。人のためにしか家事はできない。自分のためにするのは趣味であり、趣味だから好きでないとできない。」と発言された方が「家事は趣味か仕事か?これ自体に疑問がわいてきました。」との発言がなされました。

この点が対話の哲学カフェの醍醐味です。対話を重ねることで、思索が深まる。

家事は生きると趣味の部分に分けられるのではないか、生きる部分は生活を再生産する行為のなのでは?
対話は尽きないようでしたが、ここで時間切れとなりました。
不思議と分担論のお話しはなされませんでした、家事は生きること、家事自体の本質について対話が重ねられたように感じました。生きる事、一筋縄ではいきません。機会があれば同じテーマで対話をやってみたいと思いました。

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