Go To Montain

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第4回哲学カフェ「人生のパートナーって?」


哲学カフェ@アルコイリスも4回目となりました。

今回のテーマは「人生のパートナーって?」でした。
参加者:17名

今回も参加者、哲カフェ運営委員の池田さんにレポートいただきました。

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パートナーの文意は、仲間、同伴者、配偶者といったところでしょうか。
文意ではなく対話の中でパートナーがどのように位置づけられるのか。
展開が全く見えな中で対話がスタートしましたが、盛り上がりながら対話が続いていきました。

今までで一番楽しかったとの感想を頂いたりしましたが、個人的には一番難しかったです。
パートナー、分かっているようで分かっていない、捉えきれていない、多様な答えがあるテーマでの対話記録です。
いつも思うのですが、懇親会が不思議な盛り上がりをみせます。

これは対話という濃密なコミュニケーションがそうさせるのでしょうか?
それとも疲れ切りハイになっているだけなのでしょうか?

今回の対話でのキーワードは
■「人」
■「言葉」
■「セクシャル」
■「1人の時間」
■「シャケとヤマメ」
です。

ここでお詫びです。「シャケとヤマメ」のお話の時は対話に没頭してまして、記録がごっそり抜けていました。
この記録でも抜けています。申し訳ありません・・。
冒頭に対話のとっかかりとして3つの質問が投げかけられました。

①人生のパートナーはいる。
②人生のパートナーはいない。
③どちらとも言えない。

想像していたよりも、「人生のパートナーはいない」や「どちらとも言えない」を選択した方が多く、のっけから考えさせられます。

■人生のパートナーは1人だけなのか?

ここで「人生のパートナーはいる」を選択された方からの発言があり、対話がスタートしました。
「自分の両親が亡くなった時、思ったより悲しくなかった。ある音楽家が亡くなった時、人生に過大な空白ができた。パートナーとは、それが無くなれば人生の大半が奪われる存在であり、1人には限定されないのではないか。自分の近親者の配偶者が亡くなった。近親者は未だにこちらの世界に戻ってこれない。片方が亡くなればここまでの状況となる結婚制度とは何なのだろうか?」。

人生に空白ができる。人生とは自分であり、ある存在が無くなれば自分の存在にも穴が空く、パートナーとは自分の存在に不可欠なものであるが、自分の存在に対して影響が大きくなり過ぎる結婚制度とは?対話が続きます。

「自分にはパートナーは複数人いる。自分におけるパートナーとは、自分の心が折れそうになった時に寄り添ってくれる人です。仕事などの各場面にいます。」
「セクシャルなパートナーが結婚制度なのか?」
パートナーは1人でなければ駄目なのか?」
1人に依存するのではなく、補えるようにたくさん作っている。」
 
ここまでの発言を受けて、ある参加者のパートナー観が整理されます。
「話しを聞いて、パートナーは人でなくてもパートナーとなり得るのではないか。本、音楽、言葉。落ち込んだ時に、昔、誰かから言われた言葉を思い出します。人に限定するのであれば、人間は多面的であるので、場面、場面で、この人、この人とパートナーは存在しています。パートナーは言葉ではないのか?」


パートナは複数存在する。ここまでの整理で、論点がパートナのセクシャルな要素へ移っていきます。

■パートナーとセクシャルの関係とは

「一緒に住んでいる人はいないが、仕事のパートナーはいる。人生が仕事となると、年をとってまでやるのかとの疑問がある。人間以外のものでもパートナーになり得るとは思うが、結婚制度は関わってくるのではないか?結婚制度で考えるならば、一対一の関係でなければ嫌な人もいる。もちろん一対一の関係が嫌な人もいる。
パートナーも夫婦、男女、彼氏彼女、といった関係と捉えるのではないか。
もし、一夫多妻制や一妻多夫制であれば一対一の関係は広がるのか?
その場合、SEXといったセクシャルな面で競合の関係は発生するのだろうか。」
「セクシャルを含めてパートナーはいます。自分のパートナーは共同で生活することや肉体的、精神的部分を全部含めるパートナー観を持っている。そこに自分と齟齬がある。」
「パートナーにはセクシャルな面は含まれると考える。それは婚姻関係があるからではないかと思う。セクシャルがないパートナーも存在する。家族であったり、良い時も、悪い時も一緒にいる人がパートナーだと思う。」
パートナーにおけるセクシャルの有無について、別の見解が示されます。

「パートナーは複数存在するがセクシャルは関係しない。自分にとっては人生の伴走者の意味合いである。物理的なことだけではなく、何かあった時に報告したい人。引っ越しや、職場が変われば人や距離も変わるが、何となく自分の近況を報告したいと思う人。リアルタイムではないが会えば関係は戻る。そんな存在。」
更に対話が交わされていきます。

「自分は結婚していない。それは相手がいないから。職場で悩みがある時に話しをする友人は何人かいる。そう考えるならばパートナーはいるのではないかと思う。」
果たして、パートナーとは1人なのか?セクシャルな要素は必須なのか?
「自分にとってのパートナーは伴走者。共に生きている人。困った時にしゃべる人。笑いのツボが同じ人。1人で全てを負うのは現実的ではないと思う。相談するとか、役割毎でパートナーがいればいいと思う。」
対話が始まった時の発言にもありましたが、1人に依存するのではなく、いかに補うのか。確かにパートナーには依存「する」、「される」の両面があると考えるならば、1人で炉両面を担うのは現実的ではないかもしれません。
ここで興味深い問いかけがありました。


■相思相愛でないと駄目ですか?そしてシャケとヤマメへ

「パートナーとは相思相愛でなければならないのか?」
この興味深い問いに対して対話が重なっていきます。

「そうでなくてもいいのではないか。」、
自分には相思相愛の相手はいない。」
必要性がある時に協力してくれる人。連れ合いとはラブラブは壊れた。しかし家族を支える存在、生活のパートナーではある。その人がいなくなると人生に空間ができる人。パートナーにはその2つがあり、相思相愛のように一致するものではない。」
先ほどの問いから関係性の意味についてへ対話の論点が移っていきます。

「パートナーとの間には信頼関係があると思う。ある友人が離婚することになった。自分に話しをしてくれ、色々お願いされて頼りされていると感じた。ある意味で人生のパートナーではないか。パートナーは信頼関係があるから成り立つとのだと思う。」

「妻はパートナーなのか?ある意味違う。仕事や下ネタを話す相手は妻ではない。万能なパートナーはいない。目的に向かっていく時には切り離せない相手。夫婦としては冷めてはいるが、自分の子どもの母親であり、正直離れて暮らしたくはないし、一緒に暮らし、一生を沿う相手である。目的はたくさんある。そうなると万能なパートナはいないと思う。」

ここで、産卵の話しが入り、対話が大いに盛り上がりました。
キーワードはシャケとヤマメでした。
生殖本能とパートナーの関係とは?対話は進んでいきます。

「人類の長い歴史の中では28歳が平均寿命だった。子どもを生んで少し育てて死んでいく、歴史上初めて60歳以上生きており、生物としての欲である産卵が終わった後、どうやって生きていくのか?その問題に直面している。」「年をとり脳の造りが変わったと思う。今は部屋に誰かを入れたくない。パートナーはいたらいいと思うが、パーフェクトなパートナーはいないならば、わざわざ誰か1人を選ばない。」
対話のキーワードとして脳も追加されました。この発言を受け更に対話が進みます。

■信頼関係やさみしさや・・

「婚姻関係や色々な局面で考えるならば、その局面での相手の存在がパートナーなのではないか、やはり特定の1人とは言えない。目的に向かっている時に信頼関係で繋がっている人や物。恋愛で盛り上がっている時は脳がホルモンでハイになっている。その時期は人生の一時期であり、50~60歳でラブラブというのは信じられない。打算的なことも含めているのが普通だと思う。」、
本能的な部分、さみしさから人を求める、これは何なのか?さみしさを紛らわせたいという感情は人が生存するために必要な感情ではないか。」

パートナーの要素としてさみしさのキーワードが加わりました。

「周りからさみしいと思われている人は本当さみしくはない。」
「1人でご飯を食べる人と思われたくないために、必ず誰かを誘う。さみしそうと見られると社会性がないと思われる。カモフラージュするために身を終始固めている状態、そのために結婚するのでは。」
「結婚したことはないし、1人子だし、海外にも住んでいた。友達がいなくても、孤独でも生きていける。1人でも人生を楽しんでいる人もいる。1人でいれば変なプレッシャーを感じないし好きなことができる。
「自分はSNSが大嫌い。若い人たちはLINEに拘束感を感じているがやるしかない状況になっている。生物としては多数の人と生きるようにできているが、1人で生きることも探している。私は1週間のうち4~5日誰とも話さない日がある。もう一人の自分と対話することが訓練されている。」
果たして人は1人でも生きられるのか?パートナーは必要なのか?これらを軸に対話が交わされていきます。

■1人の時間欲しいです

「20代で1人暮らしをして開放感があった。だが結婚して相手がいて生活したいと思った。」
母は父と別に暮らす時期があった。その時期に歯ぎしりや寝言が多くなった。やはり1人でいることに緊張していたのではないかと思う。誰かと生活する方が自然なのではないかと思った。」
10年位1人暮らしをした後にパートナーと住むようになった。今は1人の時間が欲しくて仕方がない。」
この発言に対して、やはり1人の時間が欲しいという意見が続きました。この1人になりたい感情について対話が続きます。

「人間が1人になりたいと何時から言い出したのか?バージニア・ウルフは1920年代に女性が本当に人間になるために女性は1人になりたいのであるという主旨の発言をしている。男性では1人になりたいと公言した人は皆無だったようだ。なぜ公言しなかったのか?自分だけでいたいと公言することは身勝手と思われ、社会が公認していなかったからである。」、
「昼間働いている。通勤途中しか1人になれない。駅から職場までの道は一本道で同僚と会ってしまう。1人になりたいは相手の拒絶なので毎日悩む。」
ここで拒絶について大変興味深い発言がなされました。

「拒否られたことがある。まっすぐに、短い言葉で今日は無理だと。」
やはり伝え方の問題なのでしょうか?拒絶と今は無理は違うのでしょう。
このように言える関係がパートナーなのでは?という発言もありました。やはり、1人になることを公言し、それを尊重することは、パートナーとの関係では重要なのでしょう。
ここで自分とパートナーとの関係については一旦整理され、パートナーのセクシャルな要素へと対話の軸が戻されます。

■そしてセクシャルへ

パートナーとセクシャルは分離可能なのか?パートナーへのセクシャルな欲求は生殖欲求なのか?興味深い対話が続きます。
「パートナーとセクシャルは分離が可能。高校生を含めて4人暮らし、気持ちの中では同士という感じになっている。若い時はそうではなかったが、その延長線上にはいるとは思う。最近、かまって欲しくて手をつなぐことをやってみたら家族皆から拒否られた。」
「相手が他の人とセックスするのがOKかどうか。ここが要因なのではないか。」
「パートナーがいる人、結婚している人を相手とする場合、相手のパートナーとセクシャルはパートナーとセクシャルには不公平なのでは。」
「同性であっても成り立つのだろうか?」
「生殖との関係ではなく自分のテリトリー問題ではないだろうか。色々なパートナーがあっていいと思うし、そもそも昔は乱婚生活していた訳であるし。」
そして相手との親しさについてのキーワードも加わってきます。

「欧州では親しい人とそうでない人に使うYOUが違う。いつから親しい人に使用するYOUを使うかは非常に大事な儀式となる。使用するには相手の合意も必要。親しさを共有する人数は20名を超えない。親子のハグは当たり前である。日本はハグがないから変に群れるのではないか?1人になりたい、ハグが自然な文化が必要なのではないだろうか」
最後に、「私の娘は20歳であるが人との距離をとるのが苦手、相手を気遣い言葉を使うのが苦手、人間のスキンシップにおける距離感は理性でコントロールされるものなのかと思う。」ここで時間となり対話終了となりました。


今回はパートナーを軸として対話を始めましたが、人と人との関係についてへ対話が集約されていったようです。対話が散らかったように見えますが、結果深掘りされていったようです。
(文責 いけだ)

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